与那国島を舞台に、82才の老人が巨大カジキと格闘する勇気と感動のドキュメンタリー。ヘミングウェイの世界を彷彿とさせる日本版「老人と海」。

映画『老人と海』公式サイト

解説

映画化のきっかけ

1986年に映画製作会社シグロを立ち上げたプロデューサーの山上徹二郎は、当時ドキュメンタリー映画『ゆんたんざ沖縄』の製作のため、沖縄本島の読谷村に通っていた。ある日、たまたま与那国出身のタクシー・ドライバーの車に乗り合わせた時、「今も与那国にはサバニという小さな舟でカジキを一本釣りしている海人うみんちゅがいる」という話を聞く。タクシー・ドライバーとの短い会話だったが、山上の中ではヘミングウェイの小説『老人と海』のイメージが漠然と浮かんでいた。
東京に戻り与那国島について調べ始めた山上は、面白いことに気が付いた。ヘミングウェイの『老人と海』の舞台であるキューバのハバナ港あたりを地図の上で見てみると、ちょうど緯度が与那国島とほぼ同じ位置にあるのだ。更に、黒潮とメキシコ湾流は流量が多く、流速も速い世界の二大海流であり、与那国島の沖を黒潮が、ハバナ港の沖をメキシコ湾流が流れている。つまり、緯度がほぼ同じで海流が似ているということは、同じような魚たちがやってくるし、当然似たような漁法が生まれるのではないか。ヘミングウェイがキューバの漁師の話を基に描いた『老人と海』の本当の世界が、この与那国島に現存しているのではないか、と思い至った。

与那国島で『老人と海』の“老人”に出会う

与那国島で『老人と海』の“老人”に出会う

『老人と海』のイメージを抱いて、ツテも何もない与那国島に飛んだ山上は、久部良くぶらという漁師部落の旅館に泊まり、役場や漁協に行き情報を集めた。そこで、今でも漁をしている老漁師を何人か紹介してもらう。その中に糸数繁さんがいた。
山上は「初めて糸数さんの顔を見たとき、この人だったら映画の主人公になると思ったし、この人しかいないと直感した」と当時を振り返る。
糸数さんは戦前、台湾に漁師として出稼ぎに出たり、終戦直後、台湾との密貿易で与那国島に一瞬おとずれた好景気の時には、家を三軒建て下宿屋をしていたこともある。また、カツオをとる大型漁船の親方として事業をしていた経験もあった。偶然にも1970年代に発刊された沢木耕太郎のルポルタージュ集『人の砂漠』(新潮文庫刊)の中の1篇「視えない共和国」に、糸数さんが実名で登場していたのだ。決して漁師一筋ではなく、様々なことを経験してきた人生の達人だからこそ、糸数さんはドキュメンタリー映画『老人と海』への出演のオファーに対しても頭から拒絶することなく、また条件をつけることもなく数日後には出演を引き受けてくれた。

一年間、カジキが釣れず

一年間、カジキが釣れず

カジキ漁のシーズンは4月から10月。撮影の年は14年振りの不漁で、その年ついに糸数さんの釣り針にカジキは掛からなかった。撮影隊はやむなく出直すことになったが、2年目も撮影のプレッシャーからか一向に釣れる気配さえない。体力的にも金銭的にも苦しく予算さえ組めない状況が続いたが、糸数さんがカジキを釣り上げるまでは撮影を続けることを決めていた。映画の作り方には様々な方法があるが、この『老人と海』はカジキが釣れなければ作品にならない。カジキが釣れるシーンさえ撮れれば、そこから映画の構成を考えることができる。映画の構成上必要なものは、追加撮影で集めればいい。たとえ2年目も釣れなくとも、3年目も続けるつもりだった。
そして89年5月27日、糸数さんと撮影隊の情熱が実を結び、ついに171キロのシロカワカジキを釣り上げた。島の人たち全てにとって、待ちに待った瞬間だった。
その後6月のハーリー祭を撮影して一旦クランクアップ。編集途中でまた追加撮影を敢行し、企画からまる5年がかりでついに映画は完成した。